推薦文:炊飯器の声に恋をして
短歌とはいったいなんだろう? 短歌は定型という「約束事」によって存在することになっているだけの、実体のないまぼろしだ。定型とは言葉を抑圧する仕組みである一方で、どんな言葉にも居場所をあたえる大義名分でもある。短歌には、何を言ってもいい。
『起きられない朝のための短歌入門』より 「はじめに」平岡直子
定型、すなわち5/7/5/7/7の音数。ひとまず守れと言われるこの約束事は、短歌を読みすぎて詠みすぎて身体が短歌になってしまった人たちがあの手この手で受け継いできたものだ。それはやっぱり短歌自体がジャンルがほろびてしまうのを恐れて、くりかえし念じることで「ほんもの」のように見えてきたのがこの千年なのである。
短歌を五年くらいやると体の半分くらいは短歌になってしまったが、でも僕は今、定型に関してはけっこうどうでもいいなと思ってしまっている。作る時も音数を数えることは無くなったし、他人の作品を読む時も音数は気にせずに頭から尻尾まで読みくだす感じで。短歌は勘で作って、勘で読む。
ひとが短歌を作る時、それはどんなときも短歌の皮をかぶった言葉でしかない。だから、どこかで聞いた「歌は心」というのはマジであたっていると僕は今のところ思っている。まあこれも「言葉は心」で当たってるかも。
でもね、短歌、ありがとう。みんながたくさん不思議な言葉を歌ってくれるのは、あんたのおかげ。この器がなければ残らなかった言葉がたくさんあって、それを思ってこの文章を書いてます。
定型をどう使っているかというのは、読者の間でいちおう確認される約束事。それを踏まえた「短歌」は、実はなんでも投げ込んでいい穴のような、不安定な湖のような、透明の機械のような、あるいはもっと俗っぽくTwitterのようなものだとも言ってみてはどうだろうか。バキバキに折り曲げてもじつは短歌って喜んでると思う。
で、とにかく、太田垣さんの歌を生まれさせてくれただけで一言、ぼくは短歌にありがとうと言いたいというわけなのよ。
炊飯器の声に恋をして地下鉄の中すべての喉に触れて歩く『あんろろめら銀河』太田垣百合子