推薦文:世界の一部を、自分へと移し替える
人間の身体がこの世に在るために必要なものはなんだろうか。それは外界から身体をつくる材料を取り込むことである。エネルギー補給である。細胞の集合体であるわたしたちは、多くの物質を外から受け取らなければ、生きていくことができない。
『あおむけの踊り場であおむけ』に印象的なのは食べ物の歌である。体感では四分の一ほどの歌に食べ物に関する語彙・動作が発生しており、そうとうな執着を感じさせる。また食べ物を喩えに使うだけではなく、次の瞬間にはそれを実際に食べる歌がたくさん出てきているのも特徴的だ。この過剰な繰り返しはなぜ発生するのか。
この歌集では、大森静佳の栞文につけられた<胎内から覗きこむように>というタイトルからもわかるように、未分化な主体のが歌集中に構築され、世界をじかに触っていくような展開がなされていく。そのイメージと「食」はじつは根本的に同一のものであると気づく。
食べることはわたしたちにとって喜びであるだけでなく、食物を異化し、自分の身体そのものにしていく行為に他ならない。言い換えれば、世界の一部を自分へと移し替えていく運動であり、主体が生成されていく最も具体的ともいえるプロセスなのだ。
わたしは当初この歌集を読んだとき、食べ物の歌は単に生活の文脈を引き連れてきているのだと思っていた。例えば以下の二首の感触は「えー椛沢さんもクレープ好きなんだー、おれも好き」くらいであり、この二首は初読時点から好きだったが、それは甘いものがこの歌集に出てくる構成上のギャップに惹かれたからだった。
思いっきりぶつけた脛の残像が新宿の夜のクレープ屋さん人のあしあとを選んで雪のうえ歩く たいやき食べたいの夜『あおむけの踊り場であおむけ』/椛沢知世(書肆侃侃房)
つまり読者としては<あっけなく塩をこぼしたその上を素足で歩く 生まれてみたい>のような歌で打ちのめされると同時に、この人も同じ人間なんだと共感のチャンネルを通して楽しむような受け取り方をしていた。
しかしあらためて読み返してみると、食べ物をうっとり眺める視線はギャップにならない。この歌集の最中では、わたしが普段行っている「食べる」という動作とは(無意識的/意識的かに関わらず)かけはなれたレベルで自身の存在をまなざしているように感じられてくる。
そのもっとも根源的な形を保ったまま、食べるという行為が世界認識の中心に置かれている。
鍋のなかの生のトマトとトマト缶ろうそくの火のよう汗が出る焼き魚の小骨をはずす 胸の奥を踏んでは消える螺旋階段とうがんは夏の食べ物じゃないように思う 視力をマイナスで知る