推薦文:キリコのマネキンと、カミーユの身体
6月10日。東京都美術館『デ・キリコ展』をみに行く。印象に残ったのは、人間的なものを削ぎ落とすように描かれたマネキン。繰り返し描かれた顔や体を、幾何学的な形に置き換え、肉体をなくしていく。
展覧会の壁にキリコの特徴に紐づけて「古代性」という言葉が印字してあった。絵画のなかにある身体=古代性を剥ぎ取ろうとしていた、ということだろう。古代性を持つもの。例えばそのひとつに人間の身体を置ける、としてみる。キリコにおいては、顔や裸婦とマネキンの対比がわかりやすい。
ところで(ところで)『カミーユ』という歌集があるのだが、展示をみていたとき、この本の中にある顔や指や皺のことが気になり始めていた。『カミーユ』の短歌には身体の一部が多く使われている。
顔を洗えば水はわたしを彫りおこすそのことだけがするどかった秋ビニール傘の雨つぶに触れきみに触れ生涯をひるがえるてのひら大森静佳『カミーユ』(書肆侃侃房)
顔、手のひら、乳房、喉、顎、頬、瞳、背骨、胸、心臓。執拗に引き出される身体がある。キリコのマネキンが身体を絵から剥がしたのとは違って、大森静佳『カミーユ』では、身体を言葉にまとわせている。
直接的に体の一部が名詞として出てくる短歌の数は99首ほど。歌集収録約240首でこの数であるから相当な頻度だ。身体を削る方向にキリコの目が向いたのに対して、モチーフ「身体」へのあきらかな執着がある。古代性を手放そうとしない握力を読み取りたい。
嗜好やスタイルに関わらず、現代の作者が現代性に引きずられるのは当然だ。古代性を剥ぎ取りたくなるというのは技術の話でもあるが、時間に縛られてしまった人間にとって、ある程度当然の流れだと思える。
いっぽうで大森静佳はずっと後ろを向いている、向きたがっている。後方の時間に手を伸ばすために、身体をどうやって使ったのか。東郷雄二はその書評で「何かに想いを寄せて想像力で作った連作が多い」と述べているが、そのなかでも『カミーユ』では心を寄せていくときの鍵として身体を使うことがある。
宦官のもういない世に蒟蒻をあらえばゆびの芯があかるむ暮れ残る浴室に来て膝つけばわが裡の宦官も昏くしゃがみぬ蝿払う彼らの無数のてのひらがぼとぼととわが胸に墜ちくる「異形の秋」
心を寄せるために『カミーユ』でくり返し試されるのは、身体の同化である。<私>の身体のパーツの動作や形を、過去に存在した<あなた>のそれと重ねていくことで、過去へアクセスしようとする。いまここにある時間と、過去に流れたはずの時間を重ねていくために必要なのは、『カミーユ』では身体。
連作「異形の秋」は、去勢手術を受けたとされる宦官たちに心を寄せる。指のぐにゅぐにゅとした感覚。連作後半<虚って気持ちがいいね 貝類のように皺寄せながら太って>のような、太った宦官の肌を触る指との接続。そしてじぶんのなかに宦官がいる唐突な把握(この唐突さに試行が現れていると思う)。膝が床に触れる、自らの裸身を日没の浴室に見ながら。硬さや冷たさを頼りに、今の<私>と同じ姿、裸の宦官の夜を立ち上げる腕の強引なちから。
新仮名遣いのこともぼんやりと考えたい。短歌たちが、徐々に過去のものごととつながりはじめるとき、旧仮名(ゐ、ゑ等)ならばもっと身を寄せていけるのではないか。
しかし、この新仮名遣いこそが、ここにつながる命綱として働きうるのだと今は思う。詠えば詠うほど、ともすれば引き摺り込まれていきそうに同化していく身体を「此処」にぎりぎり留めるのが、文字の表され方である。
宦官そのものであるような、宦官の傍で見ているような、不思議な立場を作者は取り続ける。声は既に混ざっている。けれども、仮名遣いが完全な身体の同化を拒む。逆に言えばこの仮名遣いが違っていれば、たちまち宦官の声そのものになり、過去の人々の絶唱になっていくのではないか。カミーユの詠い方を思えば、きっとそうなっていくだろう。
ところで、キリコは1920~30年代から伝統的な絵画への回帰を行い始めたそうだ。一度削ぎ落とされたはずの体がまた生まれてくる。わたしはキリコの取り組みの中では、失われたはずの幻の肉体を見出そうとする時期が好きだった。
