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BOOKDance with the invisibles
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視えないものたちとの踊り

しかし夢、幻、見せ消し。顔を出して、消え、また目の前を駆けてゆく。

睦月都『Dance with the invisibles』(KADOKAWA)

真夜はまた未生の娘の顔をして煙草吸ふわが背(せな)に重たし引用:睦月都『Dance with the invisibles』(KADOKAWA)

ここから下に、この歌集の推薦文を書いています。

Review

推薦文:未生の娘の顔

読み始めた当初いちばん気になっていたのは、繰り返し登場する「子ども」が歌集のなかの位置をどのように占めているのだろうかということだった。先日行ったしどろもどろ読書会で考えたこと(会ではうまく喋れなかった)をふまえつつ、文章を書いておきたい。

冒頭の連作であり歌集タイトルにもなっている「Dance with the invisibles」に表明されているように、視えないものや未だ視えていないものと踊るように展開していく。Dance with the invisibles。視えないものたちとの踊り。

まず、冒頭の連作に置かれている視えないものとしてあるのはレズビアンたち。異性愛規範から外れた、長らく視えない、視ないようにするものとされてきた存在としてのレズビアン。現代日本でも視えるようになったとは言い難い。

春の二階のダンスホールに集ひきて風をもてあますレズビアンたち女の子を好きになつたのはいつ、と 水中でするお喋りの声手を振りて駅に別れれば明日にはまた透明の女に戻るわれらか『Dance with the invisibles』/睦月都

子どもも視えないものとして描かれる。歌集を読むなかで「レズビアン」「子ども」を無関係のものとして読むのはむずかしい。人間の女性の体には、ひとりで、もしくは女性同士だけでは子を産む力がそなわっていない。人間にはクローンを産む能力も備わっていない。そしてしばしばこの「能力」の叶えうる結果は社会からの差別を反映する。たとえばアメリカでは常識に組み込まれている(組み込まれつつある)同性愛者カップルの子育てを、日本で行うのには高いハードルがあるように。

わが生まぬ少女薔薇園を駆けゆけりこの世の薔薇の棘鋭(と)からむに真夜はまた未生の娘の顔をして煙草吸ふわが背(せな)に重たし

「見せ消し」のように the invisibles が置かれているという発言が読書会のレポーターからなされた。まぼろしなのだ、invisible なのだと言われつつも、何度もわたしたちの前に顔を出す。何度も現れ直すことで、存在感はただ見せられるよりもはるかに強まっていく。

わたしは、個人にとって「自分の子ども」がどのような存在として目に映っているのかに強く関心がある。だから、歌集内に出てくる子どもの占める位置に興味があった。

とくべつな誰かに会うために、どうしてひとりではだめなのか。そもそもなぜ、わたしたちは知りもしない誰かに会いたいと思うのか。生むこと、生まれてくるとはどういうことなのか。

夏物語 著者コメント

多くの読者と同じように、わたしにとっても重要な一冊となった『夏物語』の主人公は「会いたい」のだと、「まだ産まれていない自分の子どもに会いたい」のだと何度も願う。まだ産まれていない子どもは invisibles のひとつだ。だからこの歌集を読んでいく中で「子ども」がどのように捉えられているのかを確認したかった。

結論としては、この歌集の感情は「会いたい」という激しさではないのだろう。作中主体にとっては、親と子というよりはむしろ魂の双子、我が分身のようなものとして視えている感じがある。産まれてきてほしいと願っているとまでは言えなくて、むしろ既に在る者として確信している。視えているという状態が先んじて、ただ産まれていないだけ。既に在る者。

しかし夢、幻、見せ消し。顔を出して、消え、また目の前を駆けてゆく。きれぎれに繋がっていく短歌連作の性質がさらにこの効果を強めながら積み重ねられた先に、制度への冷たい目をより感じてしまう。確かに視えているのだとしても、主体にとってあるものが「ない」とされ続けている事実。それは歌集の最後まで照らされている。そんななか何度も現れ直すほどに確固たる存在としての子ども。それは在るべきもの、なのだと聞こえてきはしないか。

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