推薦文:恋人は恋人でなくなりながら
つねにこの調和が破綻することを恐れている。
『夜を着こなせたなら』批評会レジュメ 橋本牧人作成分より
2024年の冬に批評会があって、それは『夜を着こなせたなら』のための会だった。いろいろな人の語りを聞いて思ったことがある。その細部は既に朧げになりつつあって、だから書いておきたいなと思ったことを短く書こうと思う。
批評会で一番おもしろかったのは「よ」の詠嘆による夢化の話だったけれど、いちばんつらくなったのは助詞「は」の選択の話だった。正確にいえば<恋人は恋人でなくなりながらおちゃらけている写真の浜辺>で、どうして「は」が選ばれるのかという局所的な話。
決断を避ける気分、という発言があった気がする。歌集の気分がめざすところは調和であり、それを乱すことをよしとはしていない。
けれど確定してしまうことがある。生きていくということは、時間が流れるということは、何もかもが決まっていくことと結びついている。それは選び取るという動作を通さなくても、いつかはかならず起こる。
恋人は恋人でなくなりながらおちゃらけている写真の浜辺
この一首において「は」が選ばれたのは、作歌の過程でほとんど無意識に、認識が留保されたのだと思った。「が」であれば、それが過去の話として確定してしまう、その認識を抑えるための「は」。痛みを抑えるためのか細い「は」。現実の見え方にフィルターをする、半目で目の前を見ているような。
恋人がもう恋人でないという現象は、自分も当然わかっている。けれどもそれを言葉で立ち上げるとき、いまだに恋人がわたしの恋人ではあった(ある)という事実が写真の中にうっすらといつづけている。
調和をとろうとすることや、決断を避けようとすることはできるけれども、でも、どこかでやってくる確定の瞬間のその激烈な痛みがあるじゃないか、なんてことはそれぞれの生を生きているから、自明だから、みんな言わなかったのだと思うけど。そのさなかで選ばれつづける留保や調和のことを思うと、胸がくるしい。目の前を夢化することと、この痛みはつながっているとも思う。だって、夢では痛みを感じない。